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Blue Moment

そして明日も、私たちは、生きている

2019/08/26
今日、ある人が亡くなったことを知った。
亡くなったのは、13日の夜だそう。

その人はだいぶ前から、がんを患っていたのだけれど、
化学療法をはじめてからも仕事は続けていた。

普通に仕事場にはいたし、
点滴を打った直後は思うように動けないけれど、
それ以外は大丈夫という感じだったので、
時折り、仕事場へおじゃましては、
いろいろと私のドレスのアイデアをカタチにしてもらっていて、
少し痩せたけれど、私からはとても元気に見えた。

でも、一ヶ月前に、請求書が届かず、
確認のために連絡をしたところ、
容態が急変し入院しており、もう復帰できないかもしれないから、
仕事に関してはほかの人に頼んでほしい、とのことだった。

お願いしていたパターンがあったので、
それをピックアップするために、
仕事場へ向かった。

彼女はいなかったが、
彼女のお父さんとお母さんがいつものように居て、
(そこは、彼女がパターンを担当し、
 お父さんとお母さんが縫製をしている)
ドレスのパターンを預かった。

彼女が入院しているので、
お母さんが、彼女の子供たち(つまり孫たち)の
面倒をみているのだそう。

「もう、あっち行ったりこっち行ったり、大変よ〜」
なんて笑いながら話していた。
笑うと目がなくなってしまうくらい、
優しい笑顔のお母さんだった。

そこに深刻な空気はまったくなかった。

私は縫製のことで聞きたいことがあったので、
お母さんにいろいろアドバイスをもらっていたら、

「私はね、高校も行かず中学を出てから、
 ずっと縫製の仕事をしてるの。
 どこにも習いに行ってないから、ぜんぶ自分で覚えたのよ。
 あなたが来るならいろいろ教えてあげるわよ」

と言ってくれた。

だから、お母さんには、
「また来ますね!」と言い、
「彼女はどこに入院しているのですか?」と
病院名だけ聞いて帰ってきた。

それが、7月後半の話だった。

8月に入り、いくつもの案件が同時に動いていて、
日々追われていた。

お盆が過ぎて、ようやく時間ができたので、
彼女のお見舞いに行こうと思い、
病院名は聞いたけど、病室の番号がわからなかったのと、
彼女の結婚してからの苗字を知らなかったので、
聞こうと思い電話をかけた。

数コール後に、お父さんが出た。
自分の名前を名乗り、彼女のお見舞いに行きたいので、
よかったら病室の番号を教えてもらえませんか?と聞いたら、
13日の夜に亡くなったんだよ、という返事が返ってきた。

え? ・・・・・

うそでしょう?・・・・・

一瞬 何が起こったのか、よくわからなかった。

まさかの展開に言葉が見つからず、
まさか彼女が死んでしまうなんて、
想像すらしていなかった。

今は入院してるけど、また元気になって、
戻ってくるだろうと、
ガンのことを知らない人間は、
軽くそう考えていた。

お見舞いに行くはずだった病院のベッドに、
彼女がもういないことを想像し、
彼女がもうこの世に存在しないことを想ったら、
気がついたら、涙があふれてしまい、
うまく話せなくなってしまった。

でも、お父さんにはお礼を言わなくてはいけないので、
泣きながら返事をしたら、
受話器の向こうで、お父さんも泣いていた。

「急だったから、自分もまだ気持ちがついていかないんだ。
 仕事の取引先には、わかる限りみんなには連絡したつもりだったんだけど、
 あなたにはいかなかったんだね。すまんね。
 途中まで仕上がってるやつがあるんだけど、
 それが誰からの依頼かもわからないんだよ。。」と。

お互いに、彼女の死に対して困惑していた。

お父さんには、また近いうちに寄らせていただきます、
と伝えて電話を切った。

彼女がいなくなってしまったことを想い、
とめどなく涙があふれて、しばらく泣いてしまった。

もういないなんて。
死んでしまったなんて。
うそでしょう?…

人の命は有限だ。

あたり前のように生きているけれど、
本当は、今日生きて、明日も生きれることは
あたり前じゃない。

少し前に、本当に、偶然にも出会った言葉があった。

『何気なく過ごしている今日だけど
昨日亡くなった人にとっては
死ぬほど生きたかった明日が
今日なんですよね」 と。

彼女のことを想う。
残された家族のことを想う。

仕事の窓口はぜんぶ彼女だった。
彼女を起点として、
お父さんとお母さんは、縫製を担当していただけだった。

私も、はじめて電話をかけた時、彼女が出て、
こういうのを作りたいのだけど可能ですか?
と電話口で聞いてみたら、
「デザインを見てみないとわからないので、メールで送ってください」
ということだったので、すぐに送った。

そのあと、「お役に立てると思います」
というお返事をもらったのが、彼女とのお仕事のはじまりだった。

私こそ、ファッションの学校を出たわけではないし、ぜんぶ独学の自己流だ。
アパレルの人が当然、当たり前に知っていることを、何ひとつ知らない。

だけど、作りたいものはあったし、
表現したい世界観もあったし、
アパレルの昔からのしきたりをまったく無視して、今日までやってきた。

パターンもワンピースの基礎は学んだけれど、
グレーディングや、デザインを美しくカタチにすることは、
やはり自分ではできなくて、ぜんぶ彼女に相談して作り上げていた。

私のアイデアやデザインを、扱う生地によってパターンに落とし込み、
足りないアイデアを実地の面から補ってくれた。

私の素人考えを、プロのところまで持っていってくれた。

これまでの VOICE のクリエイティブを影で支えてくれていたのだ。

最後の仕事となったのは、
私があるモチーフをワンピースのデザインに落とし込みたい、という依頼のもと、
彼女は彼女なりにいろいろ考え、私のアイデアを、
彼女のインスピレーションが助けてくれた。

この最後の作品となった私のドレスのデザインを見て、
彼女は仕事場の奥から、
一冊の分厚い大きな本を取り出した。

それが、マドレーヌ・ヴィオネ の本だった。

「ヴィオネって知ってる?」と聞かれて、
「知らない、誰ですか?」と聞き返したくらいだった。

ヴィオネはシャネルとほぼ同時期に活躍したフランスのファッションデザイナーだが、
一般の人はシャネルは知っているけれど、
ヴィオネはほとんどの人が知らないのではないだろうか。
もちろん私も知らなかった。

だけど、ファッションを学校で学んだことのある人なら、あたり前に知っている。

彼女が仕事場の奥から引っ張り出したヴィオネの大判の本は、
今なら一万円で買えるけれど、彼女いわく、
当時は文化服装学院の授業で、5万円で全員が購入必須ということだったそうだ。

その本は、ヴィオネのデザインのすべてが掲載されていて、
1920年〜1930年の頃の90年も前のデザインなのに、
今着ても、まったく遜色ないデザインで、
むしろ美しさが際立っていた。
この時代にもうすでにこのデザインのドレスがあったなんて。

彼女は、私が作りたいと見せたデザインから、
ピンときたのがヴィオネのデザインだったようで、
その本を取り出して、
「このスカート部分はこれが参考になるかもしれない」と言った。

2人でヴィオネの本をめくりながら、
この時代にこんな人がいたんだ、とすごく刺激になったし、勉強にもなった。

私が目指したいのは、シャネルではなく、
どちらかというと、むしろヴィオネの方だった。

こんなに美しい流れるようなドレスが作れたら。

そういうことを教えてくれたのが、彼女だった。

結局、それが最後の仕事になってしまった。

でも、そのデザインの青いドレスが、
CMに起用され、国際環境会議で登壇される人の衣装にも使われた。
多くの人から、美しいと褒めてもらえた。

彼女との二人三脚での最後のドレス。

彼女には、本当にありがとう。
感謝しかありません。

そして今日。
奇遇にも、涙ガラスさんの個展へ。

涙のカタチをした、いつもの雫のネックレスたち。

今回は、地下にインスタレーションがあって、
ランプを持って、階段を降りていく。

そこには、涙の粒がたくさんあって、
仄かな光の中で、穏やかに輝いていた。

しばらくそこに身を置いて、
彼女の不在を想った。

また泣いてしまいそう。

涙のガラスはとても美しく、とても癒されました。

今日、ここに来れて、よかった。

そして、明日も、

私たちは

生きている。

『母なる色』

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